ちぐしんらいさんとらいじんぐさん

アラサー国会議員秘書による日々のタレコミ

佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問

国会では佐川前国税庁長官の証人喚問が行われた。事前から言われていたように核心部分については黙秘し、新たに分かったことはほとんどない喚問だった。

1年前、籠池さんが喚問されたとき「動じない」、「答弁慣れしている」なんて報道されてたけど、それ以上に永田町では佐川理財局長の答弁の方が話題で、「この局長すげぇタマだわ」とみんな言ってた。当時、同じように政府参考人で答弁していた国交省の航空局長がオドオドと答弁していたから、余計に佐川局長の質問ごと野党議員をばっさり斬るような答弁が印象に残った。

昨日の佐川前長官は充血した目をしていて、時折声が震えることはあったけど、あれだけの重圧の中でよく答弁したと思う。あいかわらずの強心臓だった。共産党小池晃議員や、自由党森ゆうこ議員、コワすぎでしょ。野党の強面議員に攻められる映像をみて、何を思ったのか突然むなしい気持ちに襲われた。(佐川前長官は)昭和57年に入省して、楽しいことも、つらいこともあっただろう、でも35年間まっとうにやってきて、同期も本省にいるのは数人、そんな職場生活の最後がこんな終わり方なんて、本人は思ってもなかっただろうなと思うと、仕事っていったいなんなんだろうという脱力感を強く覚えたのだ。
私の周りでは、仕事に人生をかける人や、ものごとの優先順位の第一位は仕事という人はとても多いけど、訳の分からない出来事でいままで積んできたものを崩されてしまうんだなと。このことを同棲中の彼女に話したら「サウンドノベルゲーム(古い)で選択肢を間違って一瞬でゲームオーバーなるみたいな?」と言われたが、自分の感覚はどちらかというと、普通に暮らしてたらある日、津波が襲ってきてすべてを流された感覚に近いと思った。人生は選択肢の連続だって言われるけど、運もやっぱあるよね。運気をよくしようと風水にハマる人の気持ちが少し分かった日だった。

江崎鉄磨沖縄北方大臣の失言はフラグの回収

 江崎鉄磨沖縄北方大臣が3日連続で予算委員会で失言をしたらしい。江崎大臣は大臣就任の前からやらかし続けているので以下紹介しよう。

 そもそも江崎大臣は総理から沖縄北方大臣の打診された時、その大臣やりたくないですって辞退しようとしたけど、派閥の親分に怒られて、んじゃ、やりますって経緯が話題になった。*1

 そのあとの大臣就任会見でもやらかした。委員会の答弁で失言しないために「役所の答弁書を朗読する」といったのだ。*2

 そして今回、「65億円」を「650万円」と言い間違え、「北方領土の日」を「沖縄北方の日」と答弁書の朗読もできずに失言した*3。「そうか、就任会見での発言は伏線だったのか」と一同気付く、というところまで来ている。残りは「だから最初からやりたくないって言ったのに」といって辞任すれば伏線はすべて回収だ。

 結局のところ、やる気がでないんだろうなと思う。愛知の選挙区選出の議員が「ついに俺も大臣か」って時に、打診されたのが沖縄北方相って。その分野に詳しくもなければ、うまみもない。とはいえ辞退すれば他の派閥にポストが流れて「二階派は大臣0人!影響力低下か⁉」みたいに騒がれる。その分野に詳しくないから、ペーパー通りに発言しますと言っても批判され、ペーパーを言い間違えても批判される。政治家はなかなか過酷な職業だ。

出世の早道とお伺い文化

 エライ人は基本的に頼られたり、相談されることが好きだ。

 入社何年目だったか、ある提案ごとにのめりこんで残業していた夜、気分転換にソバでも食いに行こうかと廊下にでて、エレベーターを待っていたら、どえらく待たされた。たまたま2.5階級くらい上位のエライ人ももれなく待たされていて、手持ち無沙汰だったのか、ヨレヨレになってる私を見て、「おー、頑張っとるみたいね」と声をかけてくれた。一言、二言あいさつの後、まだ来ぬエレベーターに沈黙が気まずくなって「あの件はこんな感じになりそうです」と超概要をいった。「あー、それなら(他部門の)○○さんにも、××(私の直属の上司)から相談するって言っとくから、××君とご説明にあがりなさい」とエライ人はいって、ようやく来たエレベーターに二人で乗った。

 後日、エライ人にいわれたとおり直属の上司と一緒に○○さんに「事前説明」に行ったところ、その後の社内手続きが恐ろしくスムーズにすすんで驚いた。ひょんなことから根回しができてしまったのだ。根回しのパワーはおそろしい。

 エライ人に「こうしたいのですが、よろしいでしょうか」「(わかりきったことでも)これはどのように進めればよろしいでしょうか」といった、事前に「ご意向をお聞きする」ことや、「お伺いを立てる」ことが決定の潤滑剤だ。組織で出世したいなら、早めに覚えていたほうがいい。「ほう・れん・そう(報告・連絡・相談)」をガチでやる人がだいたい出世する。

 こういうことを年中やっていると、自然に飲み会が多くなったり、何でもかんでも上司の判断を仰いだりと日本型の組織ができあがる。飲み会では気軽に上司と話せるし、根回しされることに慣れた上司は、突然降って沸いた話がおこると「俺は聞いていない!」とアレルギー反応を起こす(エライ人はビックリさせられることが嫌いだ)。そもそも根回しの上手い人が出世するから、自分がどっぷりやってきたことを部下にも求める。

 しかも根回しというのは、だれも教えてくれない、いわば裏技的なテクニックだから、裏技を知らない(気付かない)一般社員からすると「なんであいつが出世するんだ」、「ゴマすりの上手いやつが出世する」と評価の不満が蓄積される。

 日本企業は無駄な会議が多いとよく指摘されるが、会議だけでなく、こういった決定に深く関与するコミュニケーション自体に恐ろしく時間がかかっている。もはやこれは文化だ。政府はなんとか生産性を上げようと「生産性革命」なんて掲げているけど、革命では文化は変わらないから、根回しする奴は穴に投げ込むよと毛沢東ばりの焚書坑儒の「文化大革命」するしかない。

 あるいはウチの会社は根回しの上手い人を出世させますと裏技をオープン宣言すれば、みんな根回しに励んで、驚くほどコミュニケーションがはかどって生産性が上がるかもしれない。または根回し合戦で生産性が著しく下がって「もうこんなバカなことはやめましょう」って破壊的創造になるかもしれない。

 とにかく、文化に挑戦してるんだよ政府は。

 

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融和から分断、分断の中での融和を描く 『子どもたちの階級闘争』ブレイディみかこ

 イギリスの「底辺」の託児所の物語。そこには「親子3代にわたって生活保護を受けているダイハードなアンダークラス民」の母親や、「才能はありながら社会でそれを換金できない」おばちゃんらが登場する。なにやら救いようがなくてどうしようもない人物の集まりように聞こえてしまうが、この託児所は、母親が働く(あるいは働くための教育プログラムを受ける)ために子どもを預けているのだ。この託児所を離れるときはすなわち、子どもが施設に送られて、親子別々になるときだ。親子が親子でいられる最後の砦として、この託児所は存在している。

 この託児所で描かれる親子の愛は難しい。DV疑惑のある母親と、画用紙に赤と黒の絵の具で塗りたくって、ハサミで穴を開けまくったバイオレントな絵を描く、笑わない子どものアリス。それでも母はペット屋のウサギの前で笑うアリスを知っている。親も不器用であれば子も不器用だ。この不器用さは読んでいて歯がゆい。でもこの親子は歯がゆさがないほど器用に生きていれば、ここにはいない。

 そんな託児所に預ける親、預けられる子ども、そして託児所のスタッフ、それぞれが微妙なバランスを保って融和している中で、「緊縮政策」「予算削減」という政治要因でバランスが徐々に崩れて、分断されていく様を描いている。衣食足りて礼節を知ると言ったものだが、カネや予算がつくとある程度は心も落ち着く環境が作れることを、筆者は現場から描いている。

 一方で、託児所の子どもは言う。

「大人になったらベネフィット(注:生活保護)をもらって、たくさんチョコレートを買って、一日中好きなテレビを見て暮らすんだ」(p198)

 福祉政策が、自分で生きていくという感覚がそもそもない、いわば国に生かされているといえるような価値観を与えてしまっているところにもさじ加減の難しさがある。

 底辺託児所の現場から、融和と分断を描くという重いテーマであるにもかかわらず、筆者は独特のリズムを持った明るさの文体で、苦しさなくテーマを読者に伝える。

「いいねえ、なんか気持ちよさそう」
 私も彼女たちの脇に大の字になって寝ころぶと、女児たちはいよいよ大声で笑い始めた。(中略)いつも孤立しているジャックが他の子どものすることに反応を示したのは初めてのことだった。
 それをみてこちらも愉快な気持ちになり笑っていると、庭の柵の向こう側から英語教室を終えた移民の母親たちが不審そうな顔をしてこちら側に歩いてきているのが見えた。
 問題、山積み。
 と思いながら私は起き上がった。
 ふと見下ろせば、手足を思い切り伸ばして大の字になった子どもたちの姿は、地べたに落ちてきた星々のようだった。
(p76)

 星々には輝いてほしい。そのための環境づくりと、寛容をもちたい。

ブレイディみかこ 『子どもたちの階級闘争』